二俣城址

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今川家に属していた土地の豪族・二俣氏によって築かれたといわれ、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった要塞です。徳川家康公が織田信長公に迫られ、長男・信康を切腹させた悲劇の舞台として広く知られています。

「二俣城址」への投稿写真

「二俣城址」へのレビュー

Howl Mon

Howl Mon

2023/12/07

aumo

2023.12.7 信康廟のある清瀧寺から 信康自害の地 二俣城跡へ 紅葉が とても綺麗でした🍁 二俣城跡及び鳥羽山城跡は、浜松市天竜区二俣町二俣に所在する戦国時代の山城です。両城とも、周囲を天竜川に面した天然の要害に築かれており、今川氏、徳川氏、武田氏、豊臣氏といった名だたる有力大名がその領有にかかわりました。両城の正確な築城時期は明らかではありませんが、二俣城については桶狭間の戦い(1560年)以降に本格的な造営が始まったとみられます。1572年~1575年には、二俣城をめぐり徳川氏と武田氏の攻防戦が繰り広げられ、その際、鳥羽山城には徳川方の本陣が置かれました。1579年には徳川家康の嫡子、松平信康が二俣城で自刃する事件も起こっています。1590年、徳川家康が関東に移封されると、豊臣家重臣の堀尾吉晴が両城を領有し、二つの城の主要部分に石垣が構築されました。この頃、二俣城には天守も築かれた可能性が高いとみられます。1600年、堀尾氏が転封すると間もなくして、二俣城と鳥羽山城はその役目を終えました。  両城にみられる顕著な特徴は、中世的な土づくりの山城に、近世的な石垣が導入された初期の姿が良好に保存されていることといえます。二俣城には、深い堀や天守が備えられるなど要塞化が進められたことに対して、鳥羽山城には開放的な大手道や庭園が構築されるなど迎賓館的な性格が強められています。両城は、機能の違いが顕在化した「別城一郭」といわれる戦国時代の城郭の姿を具体的に伝えるものとして、高い価値が認められました。 #12月のお出かけ #二俣城跡

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「二俣城址」の基本情報

名称

二俣城址

カテゴリー

その他・その他

住所

静岡県浜松市天竜区二俣町

アクセス

(1)二俣本町駅から徒歩約10分

駐車場

電話番号

053-922-0033

備考

時代 :安土桃山時代

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