息障院(伝範頼館跡)

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吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。範頼は遠江国蒲御厨かばのみくりや(浜松市)で生まれたことから 蒲冠者(かばのかじゃ) とも言われているが、頼朝・義経の生涯が良く知られていることに対して、不明なことや謎とされていることが多い。源平の合戦では義経と共に平氏追討軍を指揮していたが、頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、建久四年(1193年)8月に伊豆に流された。範頼のその後については不明であり「修善寺で自刃」「現横浜市の太寧寺(だいねいじ)で自刃」「伊予国(愛媛県)の河野氏を頼り、そこで没した」「北本市石戸宿で没した」などの諸説がある。範頼没後はその子範円(のりかど)一説には範国(のりくに)、 為頼(ためより)、義春(よしはる) 、義世(よしよ)に至る五代がこの館跡に居住し、範円以降は吉見氏を称した。永仁四年(1296年)、範円の孫義春が謀反の罪で殺害され、次いで義春の子義世も謀反の罪で捕らえられ殺されるなど、北条氏の弾圧を受けた。現在の息障院がこの地に移ったのは、室町時代の明徳年間と伝えられるが、今なおこの寺の周囲には、範頼の館建立時に作られた堀の一部等が残っている。

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「息障院(伝範頼館跡)」の基本情報

名称

息障院(伝範頼館跡)

カテゴリー

神社・神宮・寺院・その他神社・神宮・寺院

住所

埼玉県比企郡吉見町御所146-1

アクセス

(1)関越自動車道東松山ICから車で20分

駐車場

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