端島、通称軍艦島。軍艦島の通称が使われ始めたのは大正時代頃。日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼ばれはじめました。当時は炭鉱の島として栄えた。波が微妙に高めで上陸出来ず残念でしたが近くでじっくり観る事が出来ました。ドルフィン桟橋は最初は波で上下していたので名前の由来になっだそうですが台風等で何回か流され今の形(上下しない)物になったそうです。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達していた。炭鉱施設・住宅の他、小中学校・店舗・銭湯・病院・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。(写真1枚目右の島)また島民の給料は当時平均の約3倍貰っていたらしくまだTVが普及してない頃にほぼどの家庭にもTVがあったらしい。小学校の屋上が去年崩れてしまったそうでこれからは行く度に景観も変わってしまう可能性がありますね。最後の模型は長崎港ターミナルにあったものです。