柴田勝重の墓

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織田信長の死後、柴田勝家が豊臣秀吉に滅ぼされた後、孫の勝重は成人すると徳川家康に仕えた。そして、上仙川・中仙川の地を与えられた。今の新川団地の場所に勝重の陣屋があったと、『新編武蔵風土記稿』などに記される。この地は島屋敷遺跡と呼ばれ、団地の建替工事に伴い発掘調査が行われた。80年ほどで柴田家の仙川の知行は終わり、以後は幕府の直轄地となった。勝重は、寛永9(1632)年、52歳で病死。春清寺墓地には宝篋印塔型の雄大な墓がある。法名は「揚源院殿雄山浄英居士」である。また、十世勝房が寛政8(1796)年に建立した柴田家の由緒を記した碑もある。なお、新川の勝淵神社境内には勝重が勝家の兜を埋納したという塚がある。

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「柴田勝重の墓」の基本情報

名称

柴田勝重の墓

カテゴリー

その他・その他

住所

東京都三鷹市新川4-4-22春清寺

アクセス

(1)JR三鷹駅からバスで21分(~28分) コミュニティセンター西から徒歩で3分([鷹54 仙川(仙川折返場)行き])

駐車場

備考

文化財:市区町村指定史跡

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