伊与木弥平次の墓

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高知 > 四万十川流域・足摺岬

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伊与木弥平次の墓は、長宗我部元親から贈られた5輪の塔で、伊与喜字堂ノ本(俗称寺屋敷)、もとの宝積山普門院随正寺跡の境内に建っています。伊与木弥平次伊与木弥平次忠実は、伊与木城5代目城主です。歴代城主中最も有名で、その強弓は17歳のとき早くも土佐三強弓の一人に数えられていました。幼名は国安または隆次といい、元服後は弥平次忠実と名乗りました。少年時代から弓術に長じ、17歳の時には、佐竹太郎兵衛義秀、志和勘助と共に土佐の三強弓といわれ、その名を外国にまでとどろかせました。天正14(1586)年、佐賀城主・光富権之助、坂本六兵衛重次、森式部源長重らの勇士に交じって、九州戸次川の戦いに初陣として出陣しました。この時弥平次はわずか11歳でしたが、戸次川の激戦に無事凱旋しました。一緒に出陣した権之助も身に重傷を負いながら大功を立てました。朝鮮出兵その後、豊臣秀吉の文禄元(1586)年の朝鮮出兵での戦に、長宗我部元親の命令で再び光富権之助、坂本六兵衛重次と共に従軍しました。九州名護屋で朝鮮渡海の船を待っている時、名護屋城内の陣屋に立て掛けてあった弥平次愛用の大弓を見て秀吉が驚いたので、弥平次は大弓でみかんの木になった4~5寸の実を射抜いて見せ、再び驚嘆させたという面白い逸話があります。朝鮮に上陸した弥平次は、武運つたなく間もなく痘瘡にかかり、同年3月27日、高麗の国で異境の土と化しました。この時わずか17歳、稀世の弓豪は他国で命を散らしたのです。一緒に従軍し、各地に転戦して功を立てていた権之助も重傷を負い、元親の命令によって内地へ帰還する途中、朝鮮忠徳島で亡くなりました。一方重次は亡くなった権之助の代わりに300人の兵を連れて無事帰還を果たしました。弥平次の遺髪は随正寺に葬られ元親から墓石が贈られました。弥平次祭りと踊り弥平次は「随正寺殿高嶺星雲大居士」の法号で祭られ、伊与喜地区では毎年7月20日に弥平次の祭りを行っていました。また、若くして異境に散った旧主の霊を慰めるために、城下の老若男女によって弥平次踊りが始まり、踊りは毎年7月10日の夜、随正寺の庭(墓石前)で行われ、川奥、荷稲方面からも踊りに参加し、明治27(1894)年頃まで、約300年間続きました。父・隆康伊与木城主4代目城主。天正5(1577)年、長宗我部元親の四国統合出兵に加わり、阿波三好合戦、伊予三滝城一番乗り、その他の合戦に大功を立てました。元親はこれを賞して井田村、有井川村を褒美として与えました。

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「伊与木弥平次の墓」の基本情報

名称

伊与木弥平次の墓

カテゴリー

その他・その他

住所

高知県幡多郡黒潮町伊与喜

アクセス

(1)伊与喜駅から徒歩で15分

駐車場

電話番号

0880-43-2110

備考

文化財:市町村指定重要文化財

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