米野の戦い跡

コメノノタタカイアト

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岐阜・大垣・揖斐川/文化史跡・遺跡

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関ケ原の合戦 前哨戦慶長5年(1600年)、池田輝政を中心とした東軍1万8千に対し、西軍3千のみの布陣。河田木曽川渡河の戦いの後、東軍は木曽川を渡り米野に上陸し西軍と激突しました。戦いは、東軍大勝利に終わりました。これを米野の戦いといいます。池田勢の一番槍の手柄を立てた大塚権太夫は、岐阜勢の武将を討ち取りましたが、飯沼勘平長資に一騎打ちを挑まれ討ち取られました。討ち取った飯沼も、池田勢の武将に討たれました。この後、戦場は更に西へと向かい関ケ原の戦いへと進みます。尚、この戦いで戦死した飯沼勘平長資(大垣 池尻城主の子)の墓が、米野の戦い跡の碑より北東約500mの場所にあります。(岐阜県羽島郡岐南町平島1丁目)

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基本情報

米野の戦い跡

コメノノタタカイアト

岐阜県羽島郡笠松町米野

アクセス

(1)JR那加駅から12分

特徴・関連情報

備考

文化財:市区町村指定史跡

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