後の聖徳太子の母・穴穂部間人皇后が、蘇我、物部氏間の戦乱からこの地に身を隠し、戦乱が収まった後、都へ帰る時に村人へ感謝の念を込め自らの名「間人」を村名に贈りました。村人は皇后の名をそのまま地名にするのはおそれ多いとして、皇后の御退座にちなみ、「間人」と書いて「たいざ」と読むようになったと伝えられています。立岩の畔には「間人皇后・聖徳太子母子像」が、間人の海を見守るように優しくたたずんでいます。間人後釜ヶ浜の交差点に『立岩』駐車場🅿️の看板があります。細い道を奥へ進みます。6世紀末、聖徳太子の母で、用明天皇の后の穴穂部間人皇后が、蘇我、物部氏間の戦乱からこの地に逃れ住み、乱がおさまった後、都へ帰る時に里人へ感謝の念を込め自らの名「間人」を村名に贈ったそうです。里人は皇后の名をそのまま地名にするのはおそれ多いとして、皇后の御退座にちなみ、「間人」と書いて「たいざ」と読み伝えたといわれている。彼女の滞在を記念したこの像は、受けた恩を忘れぬように、そして里人がいつまでも優しい心をなくさないようにと願い、間人の海を見守るように優しくたたずんでいます。外出自粛中にて数年前画像